699-51古墳の街、守山


20年以上前に滋賀県守山市の古墳を見に行ったことがある。そこの古墳群は誰の古墳なのだろうか?一説には卑弥呼の時代で、その古墳群は、卑弥呼に関係しているとも、言われている。文字が、そこには文字が残されていので、誰の墓であるか、わからない。

湖琵琶湖に近い場所なので、そこには、水が近くにあったのだろう。そこには、誰か権力者がいたことは、間違いない。守山市のホームページに、それら古墳群について少し説明があるが。全国の古墳群の中で、これら守山市の古墳群がどのような位置づけになるのかは、わからない。

一度は考古学にに興味がある人は、そこを訪れることを、進める。今後さらに科学的な研究が進めことを期待している。この古墳群は、琵琶湖の水に関係している。どのような権力者がその当時いたかを考えると、それは、卑弥呼の時代なのである。

守山市のホームページにも古墳のことは、少し書かれているが。その当時の権力者については、説明されていない。

その当時の権力者の誰がコレラ古墳の権力者なのかについて。考えられるのか、今後の研究が待たれる。推定される誰の古墳なのか?が研究されることを期待している。

699-50秋の気配


これほど熱かった夏も終わろうとしている。この暑さは、舗装道路ばかりで緑の木が都市にないことに由来する。よく出かけた朽木村を思い出す。そこは、緑の木の中にある村で、気温を高くない。そのにあるのは、新鮮な空気と星が見える夜空が、ある。

一方舗装道路と車ばかりの街にいて、アイデアなど浮かんでこない。このようなことに気が付く市長など、期待できそうにない。周りに車が溢れている場所にいて、そして新鮮な空気がない街には、そして星空が見えない街にいて、心が現れることなどない。

だから、大都市にいては、この2つがない。新鮮な空気と星空がないのが、大都市である。よく長野県の原村に夏に行った。そこの夜空は、星がいぅぱいだった。

舗装道路と車が溢れた町には、星空がない。星空がいっぱいの村で、車が少ない場所は、桃源郷だった。そういう場所に、幸せが潜んでいるのだ。

699-47気候変動


50年以上前に書いた小学3年の時の「季節だより」が、今も私の机の中にある。その頃の気温は26度であった。現在2017年の夏は、毎日30度以上の気温である。道路は舗装され、国道は車が溢れている。その26度位の気温を体験するには、森の奥深くの滋賀県朽木村あたりに行くしかないだろう。一体進歩とは何だろうか?エアコンなしに生活できない環境が、進歩なのだろうか?車と舗装道路があることが、60年前の生活よりも、進歩と言えるのだろうか?60年前の今頃は、26度の気温だった。現在は、毎日30位以上の気温である。滋賀県朽木村の緑に囲まれた生活など、都市に生活している人は、忘れている。人は、森と新鮮な空気の生活など、忘れている。その原因が、舗装道路と車である。カエルの鳴き声とともに生きる生活を忘れる時、誰も、人の暴走も止められない。新鮮な空気と森ともに生きていれば、人間の精神の暴走も防ぐことができる。その生活は、トルストイが求めた生活でも、ある。そして死者とともに生きる生活である。このようなことに気が付くことなく、多くの人は、都市に住もうとする。多くの人は、より高級車にあこがれるが、滋賀県朽木村のような、新鮮な空気と8月の終わりには、26度くらいの気候の場所に住むことが、人の精神の暴走を防ぐには、必要なのだ。ニュースによれば、京都は、37度であった。そのような温度の都市は、やがて発狂する。どこもヒートアイランドになっていく。お盆に戻ってきた死者にしか、灼熱地獄になりつつある都市の末路が見えないのだろう。舗装道路と車ばかりの街に住んで、エアコンをつけっぱなしの生活をしている者には、ヒートアイランドとなった都市が見えなくなっていく。このようなことは、テレビをいくら見ても、わからない。人間日本必要なのは、新鮮な空気と水と森林なのである。人は東京に集中していくが、反対に、新鮮な空気と水と森林が、人間には、必要なのだ。このようなことに気が付いている市長など、存在するならば、お目にかかりたいものだ。

699-50季節の変わり目


この文書を書いているのは、今日8月18日(金)ですが、今日の空を見ると、今日は、夏から秋への変わる時であることがわかる。小学3年の時,気象班を担当して、一年の日記が今も残っている。気温は依然熱いが、これからは、秋が深まっていく。小学校の時、気象班を担当していた経験が今も生きている。諸学校の時に一年間書いた「季節だより」が、今も私の手元に残っている。だから小学校の記憶は、気象班だった記録である。まだ暑いが、秋はもう始まっている。その時は、何という名前の先生が担当であったのかも忘れたが、この「季節だより」は、私が初めて書いた、今も残っている文章である。今日は、夏から秋への季節の変わり目である。相場も秋の相場は、始まっているのだろう。赤とんぼが舞い、日暮が鳴いている。小学3年の季節だよりでは、気温が26度と記録されているから、もう少し当時の気温は。涼しい気温だった。株式相場も、もう秋の相場が始まっている。この季節だよりを書くことを進めてくれたのは、少学校の何という先生だったのか?50年以上経過して、この「季節だより」は、小学校の思い出の記録である。当時の今日は26度の気温だった。現在は、もっと熱くなっている。

699-49長浜市東浅井の田舎


亡き父と長浜市東浅井の田舎によく車で行った。名神高速は、使わないで一号線と8号線で2時間くらいかけて、大抵そこで、一泊した。その家は、その後売却して、そのお金は弟に渡した。何故か知らないが、奥の部屋には、キリストの絵があった。父が死んでからは、その弟は一度もその墓に参ろうと彼はしない。
私の記憶には、その田舎の家の近くの山のもとの墓に参りに、良く出かけた。亡き父の魂は、その近くにさまよっているかもしれない。お墓は、その後大津に持ってきたが、父の魂は、長浜市東浅井の付近にさまよっているのかもしれないことを、お盆が近づくと思い出す。

699-48チャー株式チャート


私が大学生の頃、毎週日曜日に大津駅近くのMさんの自宅に行っては、彼が書いていた株式のチャートを見ては、株式の予測をした。そして最初に買ったのが、日本火薬だった。今でも株式チャートは、有効である。さらに、業種が大切で、私が在職していた船井総研の株式は、株式が上場時が、高値だった。その会社は、上場時が、最高であったことが理解できる。できれば、上場時からのチャートを見ることである。それ故、わたしは、その株式は、買わなかった。上場時が、株価が最高だったことは、何を意味しているのかが、最近その企業に入社している人は、理解しているのだろうか?

699-48大学の思い出


膳所高校については、今もその同窓会の案内が来る。一方大学については、あまり思い出がない。あるとすれば、英文学部の二部(夜間部)に少し在籍していた思い出くらいである。二部の学生と授業はまじめだった。二部の授業は、今も覚えている。あとはアルバイトの思い出くらいとゼミの授業くらいであった。アルバイトでは、確か大丸で歌代恵子さんという名前の立命大学の女性が働いていた。同じ高校から来た人々は、ほとんど勉強もしていなかった。何故か河原町の大学に行くとほっとした。だから河原町の大学校舎にはよく言った。杉原という名前の法学部の学生は、彦根から通っていた。彼は日用品の企業に就職したらしい。
何故か広小路野の学舎に私は、よく通うった。同じ高校から大学に行った連中は、全く学ぶ姿勢がなかった。膳所高校の校舎の近くを通るとき、今も学生生活を思い出す。ゼミの担当の植村先生は、もう亡くなった。

699-47お知佳さん2


時が過ぎて、お知佳さんは、どうしているのだろうか、との彼女からもらった数枚の写真、着物姿や子供と一緒の写真をを見ての、思いは深まる。その写真の中には、彼女が子供を抱えてる写真や着物姿の写真がある。多分そこで働いていた北新地のバーのマスターとは、彼女の知り合いであったのだろう。彼女がそこで働いていたからこそ、北新地に飲みに行った。今は子供も大きくなって、どうされているのかを、彼女からもらった写真を見て、改めて思う。そして勇気のない自分を思い出す。残ったのは、彼女の数枚の写真である。

699-46お知佳さん


夏が来れば、思い出すのは、40年前に北新地に飲みにいつも行っていたのは、あるバーにいたお知佳さんがいた。そこでは、彼女は、着物を着ていた。彼女には子供がいて、そこで働いていた。その時に、そこで彼女からもらった写真が、私の手元にある。そこでは、彼女は着物を着ていた。彼女はとてもハスキーな声だった。彼女は、多分そのバーのオーナーの親戚だったのかもしれない。子供もその手から離れて、彼女は、今は、どうしているのだろうか?彼女がそこになければ、北新地に何回も、飲みに行かなかった。
彼女は、今何を、しているのだろうか?北新地のバーには、静かに飲めるバーがあった。彼女は、今はどうしているのだろうか?何故か、お知佳さんがいたから、北新地に飲みに行った。彼女がいなければ、安い飲み屋のあったお初天神付近のおでん屋に飲みに行った。お知佳さんは、今、どうされているのだろうか?時々、彼女からもらった、着物姿と子供を抱えた写真を見ることが、ある。お知佳さんは、今どうされているのだろうか?彼女は多分阪急沿線に、住んでいたのだろうか?彼女のハスキーな声が懐かしい。いまは、どうされているのだろうか?彼女なしに、北新地を思い出せない。赤提灯の飲み屋など、サラリーマンの不満のはけ口だった。そういう飲み屋は、嫌いだった。彼女からもらった着物姿の写真と子供と一緒の写真を見ては、お知佳さんを思い出す。今は、お知佳さんは、どうされているのだろうか?

699-45UFO


私が小学校のころ、学校から帰る道で、異様な飛行をしているものを見つけた。その飛行物体は、戦闘機や旅客機でないことは、すぐに分かった。カメラは持っていない。その飛行経路は、飛行機でないことは、すぐに分かった。まだ当時は、UFOが騒がれていない時期であった。当時は米軍の基地があって、米軍の戦闘機P38が、飛んでいたが、そのような形ではなかった。米軍の戦闘機は、すぐに認識できた。だから、異様な飛行物体は、すぐに認識できた。まだUFOが騒がれていない時期であった。