船井幸雄、1 690 残していったもの


狐狸庵生徒、感想
船井幸雄さんは経営コンサルタント会社を立ち上げ、大きく育て上げた経営者で
すが、晩年はオカルト的な事象にもかなり傾倒していたようです。
船井幸雄さんの著作を何冊か読んだことはありますが、読んでいる最中は「なる
ほど」と感じることが多くても、読後に残るものは少ない印象を持って いま
す。船井幸雄さんのビジョンついては「ファン・信者」が多い反面、「アンチ船
井」も多く、世の中での評価がずいぶんと分かれているようです。
今後、船井幸雄さんの業績について「成功例」、「失敗例」、「会社を成長させ
たプロセス」、「晩年はなぜオカルトに傾倒したか」などについて冷静 に
レビューする出版物が出てくることを望んでいるところです。

4月6日

1.地方の経営者を相手とした一番店戦略

船井幸雄さんとは、何者だったのか?を一周忌に検証することは、日本の中小企業経営論や社長学、そして自営業を目指す人には、意義がある。  船井幸雄の時代とは、何の時代だったのか?それは、1995年頃までの時代であった。

その時代までに成功した者は、本当は日本のどこにいたのか?である。その時代、多くの成功者は、実は地方に、彼らはいたのである。 船井幸雄は、そのような地方の経営者を相手として仕事をしたのである。

その洞察力は、直感だったのか、それとも偶然なのは、わからない。 彼は、東京に出ていった人よりも、地方で資産を蓄えた人を相手にしたのである。一方現在、東京は、そして地方はどうなっているのか?地方は過疎になっている。富山まで新幹線が開通して、ますます東京集中が進み、関西は地盤低下が著しい時代がこれからも5年は続く。

地方で資産を蓄えた人に対して、チェーンストア理論に対抗する理論としての、一番店戦略を彼は主張した。一番店戦略に基づく経営指導を、わたしも、その当時していて、日本中に経営指導に回っていた。

「」は、とは学のTさんの言葉です。「そういう時代が船井幸雄を生んだのかもしれません。」「船井幸雄は、バブル前までは、中小企業経営者全般の「心の支え」になっていたのですが、」

「先日から、ピケティの白熱教室を視ているのですが、今は、労働所得よりも資産運用の時代に突入しています。」 「自らが働くことよりも、「情報強者」になって、他人に働いてもらう時代ということでしょうね。」

この他人に働いてもらう人間になるためには、40代の時に仕事を切り替えることである。定型的な作業労働は他の人にしてもらい、自分はホワイトカラーエグゼンプションをして頭脳労働を、一日2,3時間の仕事をするのである。

定型的な作業労働から頭脳労働への切り替えが、40歳代である。 そして現代は、資産運用の仕事をする時代である。ピケティさんの本を読んで、それを実践するのである。

それは船井さんが活躍した1980年代と1990年以降の違いをよく理解して、資産運用の仕事に切り替えが重要である。 船井幸雄さんの経営は、喧嘩に強いと言う一番店戦略であったランチェスター理論であった。

以外のコンサルティング手法は、外資系コンサルタント会社に引き継がれていった。 船井幸雄さんと関係があった人は、それぞれが、何を継承していくかが、問われている。

2、商品づくり、または仕組みづくり、そして人間論、

 「」は、小島博の視点の小島社長の言葉です。「生い立ち」がその方の視点の根幹にあると考えています。商品に触れないで社会に出てビジネスに入る方は、仕組みからビジネスモデルを組み立てようと考えるようです。

人と接する事で生活してきた方は、人との繋がりをビジネスを組み立てる時、重きを置いて仕事を組み立てます。」 船井さんは、大本教に若い時に影響を受けたようです。

バブルが終わってからの後半のその人生は、商品でも仕組みづくりでもなくオカルトの世界に入っていってしまった。わたしの20歳代の時は、薬剤師と共に、家庭用品と日用品の商品分析をしていた。このスタンスは、一生変わらないかもしれません。

船井流の人間学は、深まるのでなく、オカルトの世界に進みました。そうでなく、商品づくりか、または仕事の仕組みづくりに若い人が取り組むことを期待している。 わたしは、実験を繰り返しながら、商品から離れることはできません。

船井幸雄さんの後のコンサルティングの流れ、を、よく理解して、誰もが情報の強者となっていくことだろう。加えて商品づくり、または仕組みづくりに、それぞれの立場から若い人が取り組んでいくことを期待して、船井幸雄さんの後のコンサルティングの流れを自分のものにしてもらいたいものです。

膳所高校の同窓生であった藤原昌一君が2月中旬に亡くなられ、心よりご冥福をお祈りします。

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