Archive for 6月, 2015

芸術、音の原点とハーモニー694ー1


狐狸庵生徒
(引用)
パレストリーナのコーラスは、宗教とコーラスの融合した世界を 作り上げていく。

(感想)
パレストリーナはイタリアルネサンス後期の大作曲家で数多くの歌曲を遺してい
ます。
単旋律の歌曲を聴くと、グレゴリオ聖歌を洗練させるとこのようになるのかなと
感じます。
また、ポリフォニー歌曲の音楽美はイタリアのルネサンス時代に対するイメージ
を彷彿とさせます。
カトリック教会の典礼音楽が多いのですが、21世紀になっても、パレストリー
ナの音楽は
カトリック教徒ではない世界中の多くの人たちにも愛されています。
パレストリーナの音楽の深層にはreligion beyond religion(宗教を超える宗教
的なるもの)が
通奏低音のごとく流れているのかも知れません。

1、 音の原点

わたしの音の原点は、長岡鉄男さんの音の50ヘルツ程度から2000ヘルツ までの様々な周波数に反応する音波のスペクトロアナライザーの分析とそれに 匹敵するような音波が入っているレファレンスになる楽器とボーカルのCDで あった。

どれだけのスピーカーを取り換えてきただろうか?自作のスピーカーも作って きた。レコードの時代は、カートリッジの交換をした。ボーカルの微妙な違い を確かめていた。 それゆえ今も使っているスピーカーのウーファーも交換している。

今は、コーラスグループの美しいハーモニーを聞いている時、それは最も心安らぐ時である。 パレストリーナのコーラスが、その一例である。 パレストリーナのコーラスは、スピーカーやアンプのレファレンスCDになるから、音響製品の弱点をされけ出す。

2、タリススコラーズの美しいハーモニー

前回に紹介したタリススコラーズの美しいハーモニーが、愛する心を育んでい く。そして今も、音の分析と音楽をたのしむことに夢中だ。夢中になっていく 生活をすることにある。

タリススコラーズは、パレストリーナなどの歌を歌っている。 オーディオ的には、コーラスの高音部分が歪むことなく再現できるかの基準に なる。そのコーラスは、音楽的には、静寂に消えていくようなコーラスで、ま さしく天上のような世界を漂わせていく。

自分の精神コントロールは、この曲 が役に立つ。パレストリーナのコーラスは、宗教とコーラスの融合した世界を 作り上げていく。

ルーツ、夢中になれるものが見つかれば693-3


1、 芸術を愛する心

「芸術は、あらゆる職業、あらゆる階級、どの人にも平等に美しいとは、どう いうことか、何が本当に美しいのかを考えさせる存在だと思います。 芸術を愛する人の心は普遍的で、人と人に、実り豊かな縁をもたらします。」

「103歳になってわかったこと」篠田桃紅著

芸術を愛する心がなければ、豊かな縁は生まれないままで一生終わる人となる かもしれない。芸術に触れる心がなければ、経済活動だけで、一生を終えていく人もいる。そして経済活動からは、人は先見力と信用の大切さを学んでいくのであるが。

人はたとえ外国語ができたとしても、それだけでは、豊かな人間関係は育たな い。芸術に触れることによって、豊かな心と人間関係は育まれてくるからであ る。芸術は、俳句でも、音楽でも、詩であっても、どのような芸術でもよい。

2、芸術は、いのちを再び得たいのちの結晶

芸術は、命を再び得たいのちの結晶である。芸術が再び人のいのちを目覚め させてくれて、人のつながりも作られていく。芸術は、花の結晶のようなもの あって、その表現方法は、絵画的になることもあるし、または、音楽的なリズ ムやハーモニーななることもある。

「夢中になれるものが見つかれば、 人は生きていて救われる。」 篠田桃紅著、「103歳になってわかったこと」 年齢に関係なく夢中になれるものを見つけていくならば、人は生きていくこと ができるし、楽しみを見出しいけるようになる。

夢中になれるものは、芸術か、創造的なものか、または技能の向上するの何か? または、知的好奇心を掻き立てるものなどに、夢中になっていく生活をするこ とにある、と考えられる。

タリススコラーズの美しいハーモニーが、愛する心と人の縁を、結びつけてい く。

ルーツ、ルーツと富は天に積む、693-1


1、ルーツ

ケルト語と自分のルーツ 昨日BS3を見たら、偶然フランスのブルターニュ地方で、ケルト語を話して、 そのケルト民族のルーツを大切にする少数民族の住む小さな町の特集をしていた。

同様にわたし達も、日本民族をひとつとするのでなく、もっともっと日本人の自分はどこからやってきたのかについて知りたいのである。それは、自分のアイデンテティを明らかにするとともに、そのルーツについての興味を喚起していく。

2、富は天に積む 、曽野綾子

「安心するためにひたすらお金を増やすことしか頭にないような生き方では、人生は不自由になるばかりです。 それに、いくらお金を貯めたところで、生きているうちに「生」を満喫しないとつまらない。

聖書にもあるように、富は天に積むのです。 「そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」(ルカによる福音書 12章33~34節) 地上にあるものはいつか破壊される。

地震と津波ですべてを失うなんてことは、もう2000年以上前から考えられていたのです。永遠に残るのは、天に積んだ目に見えない宝だけなのです。 それにしても2000年以上も前に書かれたものが、なぜこの時代でも通用するのでしょう。

それは、愚かで、ときには悪をなすという人間の本質が変わっていないからです。」

人は、永遠に残るものは、天に積んだ目に見えない宝だけであることを、人はともすれば、日常の生活の中で忘れていく。そして、生命の樹から自分も生まれてきたことも、忘れてしまう。

自分自身が永遠の生命に何を付け加えていくのかが、大切である。 そのためには、自分のできる天に積んだ、見えない宝は何なのだろうか?

上野誠、万葉集、693-1


Ⅰ、詩のルーツ

 

詩は、散文と違って、言葉を削り、磨いていて、説明しにくいものを表現しようとする試みである。その結果、出来上がっていく作品なのである。その結果、詩の言葉は、人の創造力を掻き立てていく。

詩は、再び命を得た命の結晶なのである。この要素が言葉になければ、詩は生まれてこない。

 

向日葵の花を見る人は、再び向日葵の花から愛を与えられ、いのちを感じてそれを表現しようとするのが詩であり、歌なのである。どれほどの量の散文を書く生活をしてしるとしても、このような感覚にたどり着くのではない。

 

 

詩の源流は、私にとっては、安田章生著「西行と定家」にたどり着く。そして西行と定家は、万葉集にさかのぼっていく。日本の詩の歴史は、万葉集にたどり着く。

 

2、万葉集

 

奈良大学の上野誠教授は、万葉集について、以下のように語っておられる。

「人生を楽しむことである、そうしていない人は、自分が未熟であることを証明している人である。

 

歌が詠まれているその場所に立ってみると、万葉集の歌を詠んだ人の感覚が戻ってくる。そして、その時自分も歴史の中に生きている感覚を持つようになってくるのである。

 

前回は引き継ぐ者について書いたが、引き継ぐ者になるとは、大人になる

ことでもある。

前回は思い出のアルバムスナップ写真について書いたが、

それは、ある時の人の心のよりどころであったことを思い出すのである。