Archive for the ‘文化’ Category

699-51古墳の街、守山


20年以上前に滋賀県守山市の古墳を見に行ったことがある。そこの古墳群は誰の古墳なのだろうか?一説には卑弥呼の時代で、その古墳群は、卑弥呼に関係しているとも、言われている。文字が、そこには文字が残されていので、誰の墓であるか、わからない。

湖琵琶湖に近い場所なので、そこには、水が近くにあったのだろう。そこには、誰か権力者がいたことは、間違いない。守山市のホームページに、それら古墳群について少し説明があるが。全国の古墳群の中で、これら守山市の古墳群がどのような位置づけになるのかは、わからない。

一度は考古学にに興味がある人は、そこを訪れることを、進める。今後さらに科学的な研究が進めことを期待している。この古墳群は、琵琶湖の水に関係している。どのような権力者がその当時いたかを考えると、それは、卑弥呼の時代なのである。

守山市のホームページにも古墳のことは、少し書かれているが。その当時の権力者については、説明されていない。

その当時の権力者の誰がコレラ古墳の権力者なのかについて。考えられるのか、今後の研究が待たれる。推定される誰の古墳なのか?が研究されることを期待している。

699-36知的生活


私が膳所高校に入学した時、もう女性の担任の先生の名前を忘れたが、今も覚えているのは、その女性の先生の言葉である。内容はその先の大学の準備のことだった。大学を目指さない人でも、もちろん生きていけるが、何かが、そのような人にはないことである。それは、知的な生活が領域がないこと、すなわち、知的好奇心がないことである。
私は、あるタクシー運転手に出会ってそれが、改めて理解できた。彼らは、週刊誌的な雑学は知っている。無いのは、知的好奇心なのである。
知的好奇心がなくても、人は生きていける。しかし彼らは、学ぼうとする意欲がないのである。
私がその高校に入学してほっとしたことは、その運転手のような人が、高校にいなかったことである。彼らとは、知的会話ができないと言うことである。知的会話ができない人と、一緒にいても楽しくない。彼らには、知的会話や音楽の話もできないのである。人はお金だけではない。知的好奇心がない人や、または学ぼうとしない人とは、会話ができない、その出発は高校時代からだろう。人は高校時代から、世界が違ってくる。
先日膳所高校の同窓会報が送られてきた。人は何歳になっても、学ぶことである。それを高校の時の先生は、教えてくれたことが、いま改めて理解できる。学ぶことや、知的生活を、高校時代に学んだ。改めて膳所高校同窓会報が、毎年送られてくることに感謝しています。そして大学合格者は、50年経過しても変わらない。人も学校も、レガシーによって影響を与え続けていく。

697-12出会い、両親と人間関係


 

出会いは、そこにあるのに気が付かない。それは、亡くなった両親の存在に、初めて気が付くのと同じである。出会いも同じである。その存在によって現在の自分があることへの感謝が自然に湧いてくる。

このような意識がない人が、貧困の生活をしていることを見ている。勿論徹頭徹尾、大人になってから、繁栄には自立した生活が第一歩である。その前提で、
周りを振り返ると、何歳になっても、自立した生活をしていない人がいる。

出会いが持続したものになるためには、同様に出会って今もその関係が続いている人の関係を。生産的な関係にしていくことを、新年の計画とする。
生産的な関係とは、ともに成長する関係である。

697-6出会い、笑顔


山本喜代さんの笑顔もいつまでも覚えている。人の笑顔は忘れることはない。たとえ会うことがなくなった人も、忘れられない人は,笑顔の人であり、喜代さんの笑顔のように。

笑顔さえあれば、人生はどんなに苦しい時があったとしても、人生は乗り越えていけるのである。そのためには、まず自分の顔を見て,そこに笑顔があるか、を見ることから、始まる。

697-3、出会い、数人の友人がいれば


 

数人の友人がいれば。人生は生き抜くことができる。」だけども、一人ではだめだ。写真家の荒木 経惟(あらき のぶよし)さんのこの言葉は、私にとって忘れられない言葉である。

彼は、人間を撮ってきた写真家である。彼の写真の対象は、人間である。風景写真家では、見ることのできにくい人間の表情を、彼は写す。この一言で彼は,天才アラ―キたるゆえんである。

この言葉、数人の友人がいれば・・・からして、彼は人間の表情を撮影していく。多くの人は、風景写真やスナップを写真とする。しかし荒木さんは何よりもこの言葉を紡ぐ写真家である。

この言葉があるから彼は、人間の表情を写す。そしてこのような素晴らしい言葉を書く天才なのである。彼の言葉、「数人の友人がいれば・・・」は、生きるエネルギーを与えてくれる。

人生を生き抜くことができるのは、エネルギーを与えてくれる友人を持つこと、または相手にエネルギーを与えることができる友人になることなのである。このような関係がない友人がいくらいたとしても、それは時間を費やすだけなのかもしれない。

http://numero.jp/news-150607-nobuyoshiaraki/

アイデア、695-2パレストリ―ナ&トフルトフェングラ―


公開中の「運命」と「未完成」、は、 自分を目覚めさせてくれて、自分に問かけて、最後には肯 定的に人生を見るようにと導くような音楽である。このような音楽の前には、言葉の意味が、色あせてくる。
1943年と1948年の録音の魂を震撼させるレコードを聴いている。欧州をドイツ精神は、ふたたび支配し、中国と結び少し危険もあります。が、一方日本精神には、このような危険もなくアジアに再び広がろうとしている。

 

一方、サラブライトマンのヒーリングボイスの、「涙が流れるままに」澄んだ声は、パレストリ―ナのミサと同様に、心に安らぎをもたらしてくれる歌だ。

だから、ベートベンやシューベルトと共に、ヘンデルの世界は、心の平和に必要な音楽である。この私を泣かせてください(涙が流れるままに)を聞いた人は、きっとヘンデル音楽が好きにならずにはおれない。

 

https://www.youtube.com/watch?v=Xpd0sdVn26I

 

この3人の音楽家、ベートベン、シューベルトそしてヘンデルは、精神をさせ、美しいメロディを奏で、そして天上の世界にいざなってくれる3人の音楽家である。とりわけ、忘れかけそうなヘンデルの音楽「涙が流れるままに」、は、時々聞く必要がある。

 

この曲「涙が流れるままに」は、天上の世界を存在することを信じていた人でなければ、このような音楽の世界、精神の世界を描くことはできなかったことが、改めて気がつくのである。

 

日常の世界に浸っていると、「涙が流れるままに」の世界にわたし達は触れるとは難しくなっていく。だからヘンデルは、ベートベンやシューベルトと肩を並べる天才なのである。

アイデア、695-2心の安らぎと運命と未完成


 

パレストリ―ナ&トフルトフェングラ―

パレストリ―ナの「ミサブレブィス」とフルトフェングラ―のベートベンの運 命とシューベルト未完成は、以前から持っているCDとレコードである。 しかし、それらの全曲を聞くことは久しぶりであった。

パレストリ―ナのミサは、心の安らぎをもたらしてくれる。それは、コーラス の原点であるし、この曲は宗教的敬虔さと深くつながっている。このような歌 をしばらくの間、聞いていると、その歌は、天上に心をいざなってくれる。

一方、フルトフェングラ―の「運命」と「未完成」は、精神を震撼させる曲で ある。このような運命と未完成は、フルトフェングラ―しか演奏できないベー トベンの運命とシューベルト未完成である。

この運命と未完成は、絶望というものであっても、最初はどのようなものであったとし ても、その後では自分を目覚めさせてくれて、自分に問いかけて、最後には肯 定的に人生を見るようにと導くような音楽なのである。

この3つの曲は、心に平安をもたらし、天上に魂を飛翔させ、そして魂を震撼 させる音楽である。 そして、このような曲は、めったに放送されない音楽であるから、意識的に自 分の方から聞こうとしなければ聞く機会がない音楽である。めったにない輸入 CDとレコードである。

芸術、出会いと感動694ー3


、シンプルでローコストに生きる

 

生きていくためには、お金がいる。しかし感動する対象としての真善美との出会いがなければ、犬や猫などの動物とも変わらない生き方となっていく。だから、わたしは、あまりお金が必要でないローコストな生き方を選んできた。

 

先日のNHKのニュースの焦点と言う番組だったかもしれないが、シンプルでローコストな生き方をする人を特集していた。その番組に登場した人は、部屋の中に何もない人であったシーンが印象的であった。

 

シンプルでローコストな生き方をする人は、人や芸術に焦点を当てて、生きていくことができるようになる。反対に人との出会いや芸術は、ビタミンのように欠かすことはできない。

 

2、出会いと芸術の感動

 

人との出会いや芸術の感動もないままに、歳老いていった人を見ると、貧困という言葉が浮かんでくる。感動の体験のない人は、カメラを持っても、その人は、感動の対象がわからないままに歳老いていった人である。

 

感動の体験のない人は、焦点が定まらないままにカメラのシャッターを押し続ける人のようである。そう習いためには、いくつの歳であっても、芸術に触れているようにしていく毎日の生き方が望ましい。

 

その事例として真善美に触れることについて、澤登佳人先生の家を訪れた時に、見せていただいた磁器を思い出す。その陶磁器は、日本の陶磁器のルーツとも言えるべき韓国の陶磁器であった。

出会いと芸術の感動を示したのは、白蓮であった。白蓮を私が知ったのは、テレビ番組「花子とアン」の白蓮であった。

芸術、音の原点とハーモニー694ー1


狐狸庵生徒
(引用)
パレストリーナのコーラスは、宗教とコーラスの融合した世界を 作り上げていく。

(感想)
パレストリーナはイタリアルネサンス後期の大作曲家で数多くの歌曲を遺してい
ます。
単旋律の歌曲を聴くと、グレゴリオ聖歌を洗練させるとこのようになるのかなと
感じます。
また、ポリフォニー歌曲の音楽美はイタリアのルネサンス時代に対するイメージ
を彷彿とさせます。
カトリック教会の典礼音楽が多いのですが、21世紀になっても、パレストリー
ナの音楽は
カトリック教徒ではない世界中の多くの人たちにも愛されています。
パレストリーナの音楽の深層にはreligion beyond religion(宗教を超える宗教
的なるもの)が
通奏低音のごとく流れているのかも知れません。

1、 音の原点

わたしの音の原点は、長岡鉄男さんの音の50ヘルツ程度から2000ヘルツ までの様々な周波数に反応する音波のスペクトロアナライザーの分析とそれに 匹敵するような音波が入っているレファレンスになる楽器とボーカルのCDで あった。

どれだけのスピーカーを取り換えてきただろうか?自作のスピーカーも作って きた。レコードの時代は、カートリッジの交換をした。ボーカルの微妙な違い を確かめていた。 それゆえ今も使っているスピーカーのウーファーも交換している。

今は、コーラスグループの美しいハーモニーを聞いている時、それは最も心安らぐ時である。 パレストリーナのコーラスが、その一例である。 パレストリーナのコーラスは、スピーカーやアンプのレファレンスCDになるから、音響製品の弱点をされけ出す。

2、タリススコラーズの美しいハーモニー

前回に紹介したタリススコラーズの美しいハーモニーが、愛する心を育んでい く。そして今も、音の分析と音楽をたのしむことに夢中だ。夢中になっていく 生活をすることにある。

タリススコラーズは、パレストリーナなどの歌を歌っている。 オーディオ的には、コーラスの高音部分が歪むことなく再現できるかの基準に なる。そのコーラスは、音楽的には、静寂に消えていくようなコーラスで、ま さしく天上のような世界を漂わせていく。

自分の精神コントロールは、この曲 が役に立つ。パレストリーナのコーラスは、宗教とコーラスの融合した世界を 作り上げていく。

今に生きる、4、オーディオと音楽689


 

1,船井幸雄会長の一周忌

[音楽を愛する友へ、]エドブィン、フィッシャー

   

音楽を愛する友へ、エドブィン、フィッシャー。

精神的に体験された芸術のみが、人の心に呼びかけ、影響を与え、そして人格を高めるのです。この永遠なるのものために生きることのみが,生きがいある人生と言われえるものだからです。」

 

この永遠なるのものために生きることに出会うことは、中学、高校性、そして大学の時に、人に出会うことがなければ、この感性は、干からびていく。学校を卒業しても、音楽や絵画などの芸術との出会いが続いていれば、人は経済に身も心も埋没していくかもしれない。

 

「芸術とは、より高度の次元における生命の反映なのであって、宇宙における一切の現象は変化であり、永遠の生成と消滅とである。それでも大自然はこの久遠の輪廻の環から逃れようとするものであるらしく、常に新たなる世代と、より高度に形成させられた新しい様式を創造することにより,死を克服しようと努めてやまない。」

一切の現象は変化であり永遠の生成と消滅とであるが、この輪廻から逃れようとする努力は、新しい世代に引き継がれようの試みである。その準備段階が、30代や40代かもしれない。膳所のM歯科に行って(3月20日)そこの担当の名前は知らないが、その女性と会うと何故か、不思議な気持ちになる。

船井幸雄会長が亡くなったのは、去年の今頃だった。新しい世代の人に、船井幸雄会長の記憶も引き継がれていくのかもしれない。ある時は、自転車で膳所高校に通っていたころを思い出す。ある時は、わたしが働いていた船井総研の亡船井幸雄会長の本を、その女性が読んでいると言っておられて、驚いた。

 

「芸術とは、より高度の次元における生命の反映なのであって、宇宙における一切の現象は変化であり、永遠の生成と消滅とである。それでも大自然はこの久遠の輪廻の環から逃れようとするものであるらしく、常に新たなる世代と、より高度に形成させられた新しい様式を創造することにより,死を克服しようと努めてやまない。」

この永遠なるのものために生きることに出会うことは、中学、高校性、そして大学の時に、人は出会うことがなければ、この感性は、干からびていく。学校を卒業しても、音楽や絵画などの芸術との出会いが続いていれば、人は経済に身も心も埋没してしまわない。

精神的に体験された芸術のみが、人の心に呼びかけ、影響を与え、そして人格を高めるのです。この永遠なるのものために生きることのみが,生きがいある人生と言われえるものだからです。」

2、敬虔さと芸術

 

「精神が立ちあがり,生死の彼方になにものかを求めるのである。この永遠への憧憬の中で、精神は宗教的、精神的、芸術的諸価値を創造し、それらの光を彼らの同時代及び後世に放射する。精神は隠してそのつかの間の地上の生存を超えて生き続けるのである。

 

創造によってこの同世代及び後世に放射する段階に至るのであるから、われわれが経済的な生活をしているとしても、地上の生活に安住してはいけない。自分でできる創造の仕事によって、我々は地上の生存を超える生き方をしていくことにある。

 

「芸術家とは、大自然の久遠のテーマから生まれるところの、常に新しい演奏に対する感受力を持っている者のことである。芸術は、聖なる生命の、物質を離れた反照なのである。」

 

3、リズム、低周波と高周波

 

「あらゆる創造的活動の最初には、もっとも原始的な生命現象から導き出されるところの、あの根源的感情がある者と思われる。緊張と解放、吸気と呼気、その中にすでに音楽の二大要素、すなわち協和音と不協和音が、そしてこの両者の交代の中にリズムが宿されているのである。」

 

このようなリズムを楽器やボーカルを、CDやテレビから感じるためには、少しばかりスピーカーにこだわるのである。特に、100ヘルツから200ヘルツの低音と10000ヘルツ以上の高周波の音が、体からリズムと安らぎを蘇らせてくれるのである。

 

しかしこれらの低周波と高周波の音は、通常のCDの再生装置やテレビからは出ていないことが多いのである。そのため、それらの音を再生するためにふさわしいスピーカーが必要になる。

音楽やドラマのテレビでの再生には、フォステクスのアクティブスピーカーーPMO,3は、ローコストで、低周波と高周波を再現してくれるので、臨場感は一変する。さすが、フォステクスはスピーカーの専業メーカーである。

 

「芸術は自我の狭い壁を打破して永遠なるものを志向する経験なる努力によって支えられるのでなくてはならぬ、とわたしは常々考えている。芸術は、つかの間の地上的存在を超えてあるところの、永遠に真実なるものに汲む活動であった。」

 

「我々が芸術作品に接する時の清らかな歓びと安堵とは、疑いもなく、そこに由来しているのである。そして、現代世界に最も欠けているのが、多分この敬虔さである。」